気象台の歴史

沿革

創設の経緯
 明治15年会計検査院長岩村通俊は上川に北京をおけと建議、明治16年9月樺戸監獄の命で出張した御用掛井上敬之輔は6時、12時、18時の気温観測を行いながら「ウシベツ」に至り、 この地を良田とするのは困難ではないとし、水路たのみ難く陸路を開くべきと記している。
 明治18年8月司法大輔になった岩村通俊は再度この地に至り、その命により同11月高畑利宜の宮内卿伊藤博文および開拓判官岩村通俊に対する「石狩国上川郡開拓事業之儀に付建白」なる書が提出された。 その甲号附録の第3条に次のように述べている。「上川郡に於いて可燃地を撰定し寒暖風雨の強弱及び氷雪の厚薄、川沢の出水の高低等を視定のため、まづもって3ヶ年仮測候所を御設置之事、 但仮測候所は札幌地理課の派出となすべし」(旭川市史第4章P393による)のち道庁第2部を経て翌年樺戸集治監にこの仕事が引き継がれた。この間甲種観測程度の気象観測が行われていた由である。
 明治21年7月1日付をもって道庁第2部に地理課がいかれ、石狩国上川郡忠別太樺戸集治監出張所事務所(旧試験所事務所)の西北隅の一室を仮庁舎として上川二等測候所が設置されることになった。 このため、明治21年6月気象台(原文のまま)より坂入菊太郎、豊蔵鎌吾の二人が密林を分けてこの地に至り開設を行い、同年7月1日より観測業務を開始した。 この仮庁舎は8月1日陸軍次官中将桂太郎が宿泊しているほどなので他の家屋よりは良いものであったようである。
年 表
年月日 記 事
1888年6月  日(明治21年) 坂入菊太郎、豊蔵鎌吾の二人が石狩国忠別太に入り、測候所の開設を準備
1888年7月1日(明治21年)

上川二等測候所設置(現在の旭川市神居1条1丁目)函館、札幌、根室、寿都に続き道内では5番目に気象観測を開始した
1890年7月23日(明治23年)
石狩国上川郡神居村ホ通3号へ新築移転(現在の旭川市神居1条4丁目)
1891年8月1日(明治24年) 天気予報の試験発布を開始
1898年6月1日(明治31年) 天気予報の正式発布を開始
1898年8月1日(明治31年)
石狩国上川郡旭川村字ウシシュベツへ新築移転(現在の旭川市6条通10丁目)
1902年1月25日(明治35年) 最低気温-41.0℃を記録
1916年9月1日(大正5年)
旭川区8条通11丁目へ新築移転(現在の旭川市8条通11丁目)
1918年6月20日(大正7年) 旭川二等測候所と改称
1919年5月5日(大正8年) 旭川測候所と改称
1926年5月24日(大正15年) 十勝岳噴火、泥流被害甚大
1938年10月1日(昭和13年) 中央気象台旭川測候所設置(文部省所管)
1939年11月1日(昭和14年) 旭川測候所と改称
1943年11月1日(昭和18年) 運輸通信省の所管となる
1945年5月19日(昭和20年) 運輸通信省の改組に伴い運輸省の所管となる
1957年9月1日(昭和32年) 地方気象台に昇格、旭川地方気象台となる
1960年12月10日(昭和35年)
新庁舎竣工(現在の旭川市8条通11丁目)
1962年6月29日(昭和37年) 十勝岳噴火
1988年7月1日(昭和63年) 創立100周年「旭川気象百年史」刊行
1988年12月16日(昭和63年) 十勝岳噴火(1988年12月30日まで)
2001年1月6日(平成13年) 国土交通省に移管
2004年 9月11日(平成16年)
旭川合同庁舎へ移転(旭川市宮前通東4155番31)
2014年11月10日(平成26年) 住居表示変更(旭川市宮前1条3丁目3番15号) ※移転ではなく住居表示のみの変更