1982年(昭和57年)7月豪雨(長崎大水害)

昭和57年 夏の概況

昭和57年夏の長崎地方は、梅雨入り後はほとんど雨が降らず海洋気象台始まって以来の空梅雨であった。気象台では、水不足を心配して、7月2日と7日の2回にわたり少雨情報を発表した。
ところが7月10日になると状況は一変した。この日から降り始めた雨は11日まで続き大雨洪水警報を発令することになった。通常、大雨洪水警報は1時間雨量が50mm以上、3時間雨量が100mm以上、24時間雨量は150mm以上のいずれかが予想されるときに発表する。11日の長崎市の24時間雨量は131.5mmであり、予想されたよりはやや少ない降水量であった。
雨は12日も降り続き、13日には再び大雨洪水警報が出された。この時実際に降った長崎市の24時間雨量は47.5mmであるが、当時の大雨洪水警報は、対馬・五島地方を除く長崎県のどこかで大雨になるだろうという予想であり、事実この日、長浦岳では239mm、雲仙では170mmという大量の降雨を記録したのである。
その後の2日間は、ほとんど雨らしい雨も降らなかったが、16日になると気象台は3回目の大雨洪水警報を発表した。長崎市の場合21.0mmにすぎなかったが、この時も西彼杵半島の大瀬戸では1時間に51mmの大雨を記録していた。第4回目の大雨洪水警報が発表されたのは20日午前6時20分のことであった。長崎市では243.0mmの大雨を記録し、20日までの7月の累積雨量は598.0mmに達した。これだけでも7月の平均値314.4mmをはるかに上回る雨量である。
その後、21日には梅雨明けを思わせるような夏空が久しぶり広がった。そして22日は雨もなく、人々は夏の到来を感じていた。そこへ23日の夕刻から長崎市とその周辺に記録的な集中豪雨が襲いかかったのである。
(「1982年7月長崎水害における組織の対応」1983.6東京大学新聞研究所「災害と情報」研究班著)


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