気象の知識 - 藤田哲也博士の講演動画

 1993年12月に福岡管区気象台で行われた藤田哲也博士の講演動画を紹介するページです。

 福岡管区気象台所蔵のビデオ録画を、藤田哲也博士の肖像権・著作権を有する米国テキサス工科大学の許可を得て、公開しています。

 藤田博士が講演中で使用したスライド、図、および博士の成果物は、テキサス工科大学のサウスウエスト・コレクション/特別コレクションライブラリーのご厚意により、所蔵資料からの転載を許可いただきました。ここに厚く御礼申し上げます。

 Slides, Illustrations, and Fujita intellectual publications content are courtesy of the Tetsuya "Ted" Fujita Papers, 1875-2003, Southwest Collection/Special Collections Library, Texas Tech University, U.S.A.

 また、藤田哲也博士の肖像権・著作権については、藤田哲也博士記念会とテキサス工科大学のMonte L.Monroe博士から色々なご助言や情報提供をいただきました。ここに厚く御礼申し上げます。

1.藤田哲也博士の紹介

竜巻シミュレーション装置と藤田哲也博士

竜巻シミュレーション装置と藤田哲也博士

シカゴ大学写真アーカイブ、[apf1-09827]、ハンナホルボーングレイ特別コレクション研究センター、シカゴ大学図書館

(C)University of Chicago Photographic Archive, [apf1-09827], Hanna Holborn Gray Special Collections Research Center, University of Chicago Library


 藤田哲也博士は北九州市の出身で、明治専門学校(現:九州工業大学)を卒業後、物理の助教授をされていました。その時に気象に非常に興味を持たれ、当時は、強風を伴うストームの研究をされていました。

 その一つは脊振山における雷の観測です。昭和22年当時はコピー機がなかったため、近隣の観測所を一つずつ訪問し、手作業でデータのコピー・収集をされていたそうです。そうして苦労して集めたデータをもとに、1時間ごとの天気図だけでなく、10分ごとの天気図を作成しており、当時としては非常に画期的な仕事でした。それを基に、雷雲の下降気流の存在と冷気外出流の存在を発見されました。しかし、あまりに先駆的な業績であったため、当時の日本ではあまり評価されませんでしたが、米国で高く評価されたため、昭和28年に「台風に関する解析的研究」で東京大学の博士号取得後、シカゴ大学へ赴任されました。

 米国での藤田博士は1960年代にかけて、高層観測、レーダー、航空機観測、地上気象観測など多くの観測データを精力的に収集し、緻密な解析を用いた局地気象の解明を行ない、メソ高気圧、メソ低気圧などを発見するなど、新しいメソ気象学を開拓されました。

 1970年代の有名な竜巻の研究では、航空機観測、現地調査により非常に広範囲な調査を行ない、被害状況から竜巻の風速スケールを推定する藤田スケールを考案し、現在でも採用されているところです。また大きなスケールの渦の中には、小さなスケールの渦が存在することを見出し、実証もされています。このように広範に竜巻を研究されたことで、藤田博士は、米国では「ドクター・トルネード」と呼ばれています。

 1980年代には、ダウンバーストが大気現象に存在すること、更により小さいスケールで、より破壊力の大きなマイクロバーストの存在も提唱し、解明されました。これは、終戦時、広島・長崎の原爆の調査をされたときに見た光景がヒントになったということです。特に、1975年に米国のイースタン航空機の事故があり、このときのデータを非常に詳細に解析され、マイクロバーストが原因であると結論されています。

 その後、学会では大きな議論となりましたが、藤田博士は非常に大掛かりな観測網を展開し、ダウンバーストの存在を実証する研究を進め、デンバー空港付近でのドップラー・レーダー観測では、マイクロバーストの存在を実際に確かめています。これらの研究により、航空機の安全のため、ドップラーレーダーの必要性が認識され、ドップラーレーダーの整備・展開、操縦法の改善などが行われ、航空機の安全に大きな貢献をされました。

 これらの業績で藤田哲也博士は日本気象学会の岡田賞、藤原賞をはじめアメリカ気象学会でも多数の賞を受賞されています。

 ※ 藤田哲也博士の業績の詳細については、気象学会九州支部だより2014年12月号をご覧下さい。

 ※ 藤田哲也博士記念会の活動の紹介は、『天気』65巻(2020)12号に記事があります。

 ※ 米国テキサス工科大学のサウスウエスト・コレクション/特別コレクションライブラリーの藤田哲也博士の資料目録については、こちらのページをご覧下さい。


2.この講演動画について

 1993年12月9日、藤田哲也博士が来日された際、福岡管区気象台で「台風とハリケーン」と題して講演されたときの様子を8ミリビデオカメラで撮影したものです。

 この当時、博士は73歳でした。博士は1995年に糖尿病を発症され、1998年11月19日、78歳で逝去されました。この録画は、藤田博士が日本語で講演された貴重な映像です。


 藤田哲也博士講演 「台風とハリケーン」


動画が表示されない場合、リンク先はこちらです。


3.講演の概要

1部 台風とハリケーン

1-1 台風の眼の不思議

 台風に眼が存在することにどんな意味があるのか考えてみる。

 台風が一つの大きな雲でできていて、周辺から大気が中心に収束し、雲の中心で上昇すると仮定する。このモデルが正しければ、角運動量の保存のために中心付近を吹く風は超音速になってしまうと考えられる。しかし、実際の台風の空気は中心で上昇せず、直径10~30kmの場所にリング状の雲を形成し、そこで空気が上昇することによって、超音速に達するのを回避している。

 アメリカのハリケーン研究所のGentryらは、台風の眼がもつこの効果に着目して、台風の風を人工的に弱める実験を1960~1970年代におこなっている。実験の方法は、アイ・ウォール周辺にドライアイスまたはヨウ化銀を蒔き、台風の対流雲の分布を変化させ、台風の眼を大きくし、中心から遠い場所で空気を上昇させることによって風速を弱めるというものだった。しかし、実際は、一時的に風速を弱めることができても、しばらく時間が経つと風速は元に戻るという結果に終わっている。

台風に収束する空気の流れ

台風眼に収束する空気の流れ。角運動量保存のため中心に近づくにつれて風速は増大する。

台風のリング状の雲の所で空気が上昇することで、風速が無限大になるのを回避している。


1-2 1992年ハリケーン・アンドリューの調査

1-2-1 first windとsecond wind

 1992年8月24日、フロリダ半島の南端に大型のハリケーン・アンドリューが襲来し、マイアミの南約30kmに上陸後、半島を東から西へ横断した。眼の直径は約20kmあり、その外側では平均60m/s程度の強風が吹いた。眼の前面で吹く風を「first wind」、眼が通過した後に吹く風を「second wind」と区別する。first windおよびsecond windの各々に対して、航空写真を基に強風を解析した。図中で陰影をつけた部分は特に風が強かった地域であり、どちらの風でも3か所の強い部分があった。

 風の解析には航空写真を用いて、樹木や建物の倒れた方向を注意深く調べることで風向を知ることができる。また、丹念な現地調査によって、first windとsecond windの区別が可能となる。眼が通過した所では木が完全に反対方向を向いて倒れる(写真1)。もし、木が交錯して倒れている場合には、明白に時間順序を知ることができる(写真2)。特に椰子の木は根が浅く上部が重たいので、first windで倒れるケースが多く、良い指標となっている。

1992年ハリケーン・アンドリューの経路

1992年ハリケーン・アンドリューの経路


1992年ハリケーン・アンドリューのFirst Wind

アンドリューのFirst Wind(眼の通過前の風)。眼の直径は20~30km(ドーナツ状の陰影)


アンドリューのSecond Wind

アンドリューのSecond Wind(眼の通過後の風)


写真1

写真1 first(左)windとsecond(右)windで反対方向に倒れた松の木


写真2

写真2 写真1のfirst windで倒れた木の上にsecond windで倒れた木が重なっている。時間順序が明白な例。


1-2-2 台風眼の航空機観測

 上陸後に空軍がおこなった航空機観測の結果を図に示す。高度約3,000mを飛行機で水平に飛び、1分毎の風と気温を観測したものである。眼の中は下降気流のために温度が高く、16℃および18℃と眼の外側より11~13℃高温になっている。また、ハリケーンが進行しながら回転しているため、眼の中心と風速0の所は少しずれている。

アンドリュー上陸後の航空機観測

アンドリュー上陸後の航空機観測(05時14分~05時27分)。

05時21分に空軍機が高度10,000ftでアンドリューの眼を貫通し観測。等値線は風速分布(単位:mph)


アンドリュー上陸後の航空機観測

アンドリュー上陸後の航空機観測(06時03分~06時20分)。06時07~14分に眼を通過。

等値線は温度分布アンドリュー上陸後の航空機観測(05時14分~05時27分)。


1-2-3 強風被害の特徴

 アンドリューは今世紀にアメリカ本土に上陸したハリケーンの中で3番目に強いものであったと言われる。現地の被害調査でも強風を物語る痕跡が多数あった。

 <強風被害の状況>

 ・マイアミ沖にあるサンゴ礁の島は完全に高潮に洗われ、木が枯れた。

 ・Turkey point (眼の上陸地点の南約8km)と呼ばれる岬は南から押し寄せた高潮に完全に洗われ、海岸が40~50cm削られ、北側の海岸には流れ出た砂がギザギザ状に突き出た形になった。

 ・松の木の中には(一般に松の木は風に強いが)、地上1mのところで曲がったものもあった。

 ・ハリケーンの眼から約20km北にあったハリケーン・センター(NHC)のレーダーが吹き飛んだ。

 ・屋根が吹き飛んだ家も多数あり、トレーラハウスは微塵状態になった。

 ・数トンもあるコンクリート製の歯止めの付いた梁(tie-beam)が吹き飛ばされた。(推定風速70m/s以上)。(写真3)

 このような猛烈な強風は、数秒オーダーの短い時間内に局地的にエネルギーが集中した結果生じたものと推定される。このミクロ・スケールのエネルギーの集中を説明するために、藤田博士は「台風の中にミニスワール(mini swirl) 、 マイクロバースト(micro burst)といった微細構造が存在する」ことを提唱している。

 むしろ、こうした作業仮説を先に立てて調査しなければ発見は難しい。

吹き飛ばされた屋根の構造

吹き飛ばされた屋根の構造


吹き飛ばされたtie-beam

写真3 吹き飛ばされたtie-beam


1-2-4 ミニスワール(mini swirl:台風の中の小渦巻)の概念

 竜巻の中に小渦があることを藤田博士が提唱し、ビデオ撮影によってその存在が確認されている。同様にハリケーンの中にも小渦が存在すると藤田博士は考えて、ミニスヮール(小渦巻)と名付けた。ミニスワールは、ハリケーンの一般風の中に発生した小さい渦が、台風のアイ・ウォールの雲の下を通過する際に、上昇気流によって鉛直方向に渦管が伸びて、渦の回転半径が小さくなり、角運動量保存で回転速度が急激に増加するために発生すると考えられる。したがって、ミニスヮールの回転方向は左と右の両方が可能である。

竜巻の中の小渦のモデル

竜巻の中の小渦の概念図


台風の中の微細構造

台風の中の微細構造


台風の中のmini swirlの概念図

台風の中のmini swirlの概念図。

眼の周辺で雲の下の強い上昇流がある場所へ小渦が進入すると、渦が伸張して角運動量保存のために回転が強まる。

台風の風に回転がプラスされると局所的に非常に強い風になる。


1-2-5  竜巻の痕跡からの類推

 ミニスワールが回転する渦であることは竜巻の痕跡との類似から判断できる。

 イリノイ州で発生した竜巻がトウモロコシ畑に残した痕跡の航空写真をみると、進行方向に半月状の線が多数並んでいるのがみられる。すなわち、ちょうど円が平行移動するのを一定の時間間隔で写真に撮ったような跡が付けられる。もちろん、竜巻はミニスワールとは成因が全く異なる現象であるが、進行する渦巻である点では同じと考えられる。したがって、竜巻が地上に残す痕跡と類似の痕跡がハリケーンの中のミニスワールの痕跡にも見られるはずである。そう考えて、ハリケーン・アンドリューの通過後。撮影された航空写真で同様な渦巻の痕跡を探すと、ミニスワールと思われる痕跡が多数見つかった。


1-2-6 ハリケーン・アンドリューの中のミニスワール

 ハリケーン・アンドリューの航空写真を調べると、渦(回転の直径は100m以下)の痕跡が見つかった。拡大してみると、円の曲率をもった跡が見られ、ミニスワールが通過したと考えられる。このとき、ミニスワールの経路上にあった重さ1トンもあるゴミ入れが、まるで遠心分離機にかけられたかのように200m先へ吹き飛ばされていた。このように、ミニスワールの回転運動とハリケーンの一般風が重なると80m/sもの強い風になり被害をもたらすと考えられる。(ハリケーン・アンドリュー通過後の航空写真の中には、この他にもミニスワールらしき痕跡が見られ、竜巻の痕跡と似た痕跡も紹介された。)


1-3 ハリケーンの中のダウンバースト

1-3-1 ダウンバースト(down burst)の概念

 ダウンバーストは積乱雲の中の下降気流が強くなり、地面に激突し、星状に発散する現象である。どちらかといえば、積乱雲が充分発達をとげ、降水が起こっている衰弱期に起きやすい。1974年4月、藤田博士がウェスト・バージニア州で発生した竜巻を調査中に発見したのがきっかけである。ダウンバーストの内、規模の小さいものをマイクロバーストと命名している。

 マイクロバーストは地上での発散が特徴であり、航空写真の解析が決め手となる。1977年7月、ウィスコンシン州で起こったマイクロバーストによる倒木状況をみると、1,000本位の木が放射状になぎ倒されている。


1-3-2 ハリケーンの中に存在するマイクロバースト

 ハリケーンの中にもマイクロバーストが存在すると仮定して探してみると、 アンドリューの航空写真の中に数多く見られた。また、平成3年台風第19号でも大分県耶馬渓・日田地方で、杉が地面に叩きつけられ放射状に倒れているのがみつかっている。山地の地形効果もあるが、これほどの強風はマイクロバーストを考えないと説明しにくい。航空写真で見て、木が放射状に倒れていて、それが地形に沿ってなければ、マイクロバーストと判断してもおかしくない。

 このように、ハリケーンの中にはミニスワールやマイクロバーストといった微細擶造が存在すると考えられる。そういう先入観を持って探すことが発見に導く。


1-4 台風の衰弱とダウンバーストの発生

1-4-1 台風オマールの観測

(1)台風オマールの衛星画像解析

 1992年8月28日、台風第15号(OMAR)がグアム島を東から西へ通過し、島の北側に大きな被害をもたらした。18時頃台風はグアム島のほぼ真上にあった。この時刻の赤外画像で眼の付近の雲頂高度を求め、可視画像を使ってより詳細な高度を出した。可視光線が雲の山でつくる影から、月の山の高さを測るのと全く同じ方法で雲高を測定できる。この方法で非常に精密な雲の地形図を得た。

(2)台風オマールの衰弱とダウンバーストの発生

 解析によると、台風の眼の北側と南側では構造が全く異なっている。眼の北側には非常に発達した積乱雲(雲頂温度-80℃以下)があり、南側にはあまりない。この雲が発達する時にミニスワール、衰弱時にダウンバーストが発生し、島の北側に被害をもたらしたと考えられる。台風通過時のグアム島の風の自記記録をみると、平均50m/sの風が吹いており、「風の息」の振動の中に瞬間的に100m/s近いピークが数回あった。これはミニスワールやダウンバーストに対応すると考えている。


1-4-2 ハリケーン・イニキで発生したマイクロバースト

(1)地形による台風の衰弱

 1992年9月11日、ハリケーン・イニキ(Iniki)がハワイのカウァイ島の真上を通過した。イニキが島を通過する際、島の中央にある1,500mの山にぶつかって著しく衰弱した。このことは、衛星で観測した眼の温度の変化にもよく現れている。山にぶつかる直前に眼の中心の温度は-10℃だったが、通過後は-40℃と高温のコアが解消されている。また、島を通過後、眼の周辺の対流性の雲は消滅している。

(2)衰弱期の横乱雲の危険性

 台風が地形によって強制的に衰弱させられる時、何が起こるか考察してみる。台風の眼はアイ・ウォールと呼ばれる塔状に発達した職乱雲の列でできている。かって「雷雲の一生で一番危険なのは、上昇気流が発達している時期である」と考えられていたが、ダウンバーストが降水を伴う職乱雲の中で発生することを考えると、むしろ衰弱期の方が危ないことがわかってきている。

ハリケーンInikiの雲頂温度

ハリケーンInikiがKauai島に上陸直後の雲頂温度分布。等温線は5℃間隔。

1992年9月11日15時30分ハワイ標準時。気象衛星GOES-7。


(3)ハリケーン・イニキで発生したマイクロバースト

 ハリケーン・イニキの場合、台風がカウアイ島を通過中に、マイクロバーストが発生したことを示す痕跡が島のあちこちで見つかっている。

 マイクロバーストが発生したことは、島のいたるところに植えられたマカダミアナッツの木の倒れ方を見るとよくわかる。ナッツの木が放射状に倒れており、マイクロバーストが降りたところのコアの直径は50m位しかなかった。このほか、住宅地でもわずか直径20~30mのコアの周りに家が放射状に四散していた。(家の屋根が飛ばされる様子がビデオで撮影されており、それによると、屋根が外れて立ち上がるまでに約2秒、それが吹き飛んで着地するまでに約2秒という短時間で起こっているのがわかる。すなわち、家が壊れるのに1分間の平均風速などというものは意味がないといえる。)

 アンドリューがフロリダに上陸した時、高い山がなかったので急激な衰弱はなく、ダウンバーストもすぐには発生してない。一方、イニキはカウアイ島の影響で急激に衰弱し、その際、島のあちこちでマイクロバーストを発生させたと考えられる。同じ理屈で平成3年台風第19号が衰弱する時期にあった大分県でマイクロバーストが多数発生したと推定している。


1-5 統計的にみた台風の発達海域

 1950~1991年の42年間に太平洋で発生した台風の軌跡を6時間毎のデータで位置をプロットした。中心示度が下降しているところと上昇しているところを色分けして位置をプロットすると、台風の発達および衰弱の場所がよくわかる。台風はフィリピンの東で発達し、台湾にぶつかるとほとんど衰弱し、地形がかなり影響する事がわかる。また、フィリピンに来たものは大部分が直進している。


1-6 台風のpressure dipについて

 1949年6月21日、北部九州をデラ台風が通過した。このとき台風の眼とは離れた所で気圧のへこみが観測された。藤田博士はこれを「pressure dip」と名付けた。Pressure dipの前面には降水がある。同じ現象が平成3年台風第19号のときも見られた。

デラ台風のpressure dip

1949年デラ台風時のpressure dip


平成3年台風第19号のpressure dip

1991年台風第19号時のpressure dip


2 研究生活、独創的発想の原点

2-1 「青の洞門」と研究方法


 小倉中学時代、大分県山国川の有名な「青の洞門」を見学した。禅海和尚が毎日朝早くからノミをふるい、30年の歳月をかけて、たった一人で穴を掘った話を聞いたとき感激しなかった。「自分ならまず15年かけて穴掘り機を開発し、次の15年で穴を掘る。そうすれば、自分が死んだ後も穴と穴掘り機械が残るじゃないか」と考えた。何でも物事をする前に、まず、必ずやり方を考えて、どうしたら早くできるかを考える。この思想が現在でも自分を支配している。


2-2 脊振山での雷の観測

 戦後間もなく明治専門学校の助教授をしていた。現在と違って食べて生きていくことが先で、観測のための測器もなかった。紙と鉛筆だけでやれることはないかと始めたのが「雷の研究」であった。自宅の屋根から雷を観測し、どの方向にピカッと光ったかを見て、次に何秒間後に音が聞こえるか計ることにより、雷の位置をプロットできた。後にアメリカに渡ってレーダーを見たとき「自分がやっていた事と同じじゃないか」と思った。

 当時、雷が発生・発達するのは上昇気流があるからだと考えられていた。 1947年8月24日の脊振山での雷の観測を通して、その中に下降気流があると考えるようになった。 1949年、脊振山の米軍レーダー基地でアメリカのH.R.Byers博士の雷に関する論文(Nonfrontal Thunderstorm)をゴミ箱から見つけ、 Byers博士に手紙を書いたのがアメリカヘ渡るきっかけとなった。

 当時、アメリカには微細な現象を観測する人がいなかった。1946年、 1947年にThunder Storm Projectがおこなわれたが、 マイクロバーストを発見していない。現在ではマイクロバーストは毎日たくさん発生していることがわかっている。

 つまり、その事に集中して何かを発見しようとして観測しなかったら発見はないのである

背振山における雷雲のモデル

1947年8月24日背振山における雷雲のモデル


2-3 原爆の調査

 明治専門学校にいる時、長崎の原爆の爆風を調査した。放射線が地面に残した物の影から原爆は地上520mの高さで爆発したことがわかった。衝撃波が爆発地点の直下より少し離れた地点の竹を放射状になぎ倒していた。この時見た印象が後のダウンバーストのイメージにつながっている。

長崎の原爆による爆風

長崎の原爆による爆風の推定


2-4 変化するものが面白い

 ものの現象が変化するというのが好きであるし、美しいと思う。

 スイスのマッターホルンの夜明けや阿蘇山の噴火の時間変化を写真に撮るのは面白い。シカゴ大学の研究室で力マキリを飼っている。これも一日の内、昼と夜で目の色が変化して面白い。

 1989年にフランス航空宇宙アカデミーからマイクロバーストの研究で金メダルを受賞した帰りにパリからニューヨークまでコンコルド機に乗った。その時もコクピットで写真を撮り、気象観測をして断面図を作成した。普通の飛行機と比べて面白いのは、ニューヨークに着陸する時、ジェット気流のコアで風速の極大を通過したことである。

カマキリの眼の色の比較

写真4 藤田博士が飼っているカマキリ。眼の色が日変化する。


パリからニューヨークまでの鉛直断面図

パリからニューヨークまでの飛行経路に沿った鉛直断面図(1989年11月30日)。


2-5 研究成果と研究費について

 図は1955~1990年にかけての年間の研究賀と消費者物価指数の推移である。

 アメリカでは一つのテーマの研究が完成すると、研究費は削られる仕組みになっている。1960年代はメソ気象学、1970年代は竜巻、1980年代前半はマイクロバースト、後半はストーム気候学と一つのピークがくる度に研究費は大幅に落ちている。

研究費と消費者物価指数の推移(1955~1990年)

研究費と消費者物価指数の推移(1955~1990年)。CPI=消費者物価指数。



このページの図と写真は、「MYSTERY OF SEVERE STROMS」(1992)T.THEODORE FUJITA,THE UNIVERSITY OF CHICAGO.から転載許可いただいたもの、および講演後に藤田博士から頂いた資料です。

Slides, Illustrations, and Fujita intellectual publications content are courtesy of the Tetsuya "Ted" Fujita Papers, 1875-2003, Southwest Collection/Special Collections Library, Texas Tech University, U.S.A.