明治16(1883)年1月1日に鹿児島地方気象台の前身である鹿児島測候所が鹿児島郡鹿児島易居町に創立された。明治21(1888)年にミルン式地震計を設置し、地震観測を開始した。明治30(1897)年に吉野村坂元(現鹿児島市西坂元町)に移転した。
桜島大正噴火当時、鹿児島測候所には低倍率の地震計が1台あるのみで、火山監視体制が無く、噴火を予測することは非常に困難であった。
令和6年は、1914(大正3)年1月12日の大噴火から110年にあたります。わが国が20世紀に経験した最大規模の噴火と言われ、当時流れ出た溶岩等により桜島と大隅半島は陸続きになり、死者・行方不明者58名という甚大な被害が発生しました。
当時鹿児島市北部高台にあった鹿児島測候所(鹿児島地方気象台の前身)では、大噴火発生当時は震源を推定することさえ非常に困難でしたが、今日に至るまでに火山観測技術は長足の発展を遂げ、観測体制も充実してきており、現在も活発な火山活動を続ける桜島に対して、気象庁ではこれらのデータを活用することで、日々、桜島の火山活動状況の監視、および火山防災情報の改善に努めています。
110年の節目を迎えるにあたり、次の大噴火に備える皆様の一助となるよう、鹿児島地方気象台では、大正噴火の経過や観測体制、火山防災情報等について解説・説明する特設ページを公開します。
このページを訪問・ご覧いただき、ありがとうございます。
今も時に爆発・噴火して生きた火山としての力を見せながらも、その威風堂々とした姿を静かに錦江湾に浮かべる桜島は、この地に住む私たちの心の中の大切な風景の一つ・よりどころといっても過言ではないかと思います。しかしこの桜島は皆さんご存じのとおり、これまでに何度も大きな噴火を繰り返してきている活発な活火山であり、中でも大正噴火はこの地に多くの犠牲と被害をもたらしたものでした。
大正噴火で大きな力を放出した桜島は、その後一時的な盛衰を経ながらも長期的には着実に力をため続けてきており、その大きさは大正噴火時とそう変わらないレベルにまで来ているといわれています。
忘れていませんか、自然の力・・・・・。静かで雄大な桜島の恩恵を享受しつつも、桜島が持つ火山の力と恐ろしさを決して忘れず、いつ来るかはわからないながらも次の大噴火に備えることが、いざその時に皆さん自身とその大切な人を守ることにつながるものと確信しております。
このページの内容が、皆さんの次に備える気持ちへのささやかなひと押しとなれば幸いです。
令和6年7月23日 鹿児島地方気象台長 植田 亨
大正噴火では、噴火の約6か月前の1913年7月に、有村の谷合いにおいて二酸化炭素による酸欠で遭難事故が発生している。噴火発生の約1ヶ月前からは井戸水の枯渇がみられ、それぞれの噴火の3〜4時間前には海岸で熱湯噴出や井戸が沸騰したとの記録がある。
井口ほか(2019)によると、地下水の渇水は噴火に先行する地盤の隆起に、熱湯噴出はマグマ貫入に伴う地下水の間隙水圧の増加による地下水位の上昇にそれぞれ起因すると考えられる。
噴火の約30時間前から火山性地震(体に感じる地震を含む)が急増している。
1914年1月10日から地震、11日には体に感じる地震も含め頻発、12日08時30分頃、脇、有村など島の南海岸から熱湯噴出、10時05分頃、西側中腹(標高約350m)から噴火、約10分後には南東側中腹(標高約400m)からも噴火。黒煙・火山雷・空振など22時00分から翌13日01時00分にかけ特に顕著。13日20時00分頃から溶岩流出開始。西方の溶岩は横山村に達し約2週間後弱まる。南東方の溶岩は脇、有村、瀬戸を埋没し、1月29日に瀬戸海峡を閉塞。この噴火は強震を伴い、特に12日には有村及び鹿児島市で被害。地震、噴火による被害は村落埋没、全壊家屋120棟、死者58名、負傷者112名、農作物大被害等。降灰は仙台に達する。噴出物総量2.1×109㎥。
年 | 月 | 日 | 時 | 噴火開始を起点とした時間 | 現象 |
---|---|---|---|---|---|
1913 | 11月から12月頃 | 2か月前 | 桜島の一部集落で井戸水の水位が低下し始め、1か月前からは枯渇 | ||
1914 | 1月 | 10日 | 48時間前 | 地震が発生しはじめる | |
11日 | 24時間前 | 有感地震も含め頻発 | |||
12日 | 08時頃 | 2時間前 | 南岳の山頂と中腹から白煙が上昇 | ||
08時30分頃 | 1.5時間前 | 有村など島の南海岸から熱湯噴出 | |||
10時05分頃 | 0 | 西側中腹(標高約350m)から噴火 | |||
10時15分頃 | 10分後 | 南東側中腹(標高約400m)からも噴火 | |||
18時29分 | 8.5時間後 | M7.1の強震が発生し、鹿児島市を中心に被害多発。この地震で小規模な津波が発生。 | |||
12日から13日 | 22時から13日1時頃 | 12時間後から15時間後 | 黒煙・火山雷・空振など特に顕著 | ||
13日 | 13日20時頃から2週間 | 34時間後 | 溶岩流出開始、西方の溶岩は海に達し沖合の烏島を飲み込み、約2週間後には流出が止まる。 | ||
29日 | 17日後 | 南東方の溶岩は脇、有村、瀬戸を埋没し、瀬戸海峡を閉塞、降灰は仙台に達する。 |
鹿児島測候所の職員が噴火の経過をスケッチした資料が「大正3年鹿児島県気象年報付録」に記されている(詳しくは、ページ下方「コラム~火山遠望観測~」で説明)。鹿児島県立博物館所蔵の同時間帯に撮影された写真と見比べても、噴火の特徴をよく捉えていることが見て取れる。
鹿児島測候所に設置された地震計と職員による観測によれば、鹿児島市内の人が感じる規模の地震は、噴火の前日(1月11日)未明から始まった。
噴火が近づくにつれ有感地震の頻度が増加し、噴火発生後には急減したが、最大地震(M7.1)が発生したのは噴火から8時間半後のことだった。
(回数は「鹿児島県気象年報」(1916)、震度はOmori(1920)による)
(「大正3年鹿児島県気象年報付録」などの記述に基づく)
明治16(1883)年1月1日に鹿児島地方気象台の前身である鹿児島測候所が鹿児島郡鹿児島易居町に創立された。明治21(1888)年にミルン式地震計を設置し、地震観測を開始した。明治30(1897)年に吉野村坂元(現鹿児島市西坂元町)に移転した。
桜島大正噴火当時、鹿児島測候所には低倍率の地震計が1台あるのみで、火山監視体制が無く、噴火を予測することは非常に困難であった。
気象庁は噴火の前兆を捉え噴火警報等を適確に発表するために、地震計、傾斜計、空振計、GNSS観測装置、監視カメラ等の火山観測施設を整備し、関係機関(大学等研究機関・防災機関等)からのデータ提供も受け、火山活動を24時間体制で常時観測・監視している。
この結果は情報として定期的に発表するとともに、活動に変化があった場合や噴火につながるおそれがある現象が発生した場合などには、噴火警報あるいは火山の状況に関する解説情報を発表する。
また、噴火に伴い生命に危険を及ぼす火山現象の発生が予想される場合や、その危険が及ぶ範囲の拡大が予想される場合には、噴火警報を発表する。
※図は姶良カルデラ(鹿児島湾奥部)地下深部の膨張を示す変化
※観測データは国土地理院による
※噴火(図中の▲)発生前に、山体のわずかな膨張(赤矢印)、
噴火後にわずかな収縮(青矢印)を観測した時の例
鹿児島地方気象台では1941年から桜島の遠望観測を行っている。火山遠望観測とは、火山の現象(噴煙の高さ、色、噴出物、火映など発光現象)について、気象官署からの目視または火山監視カメラにより確認する作業を指す。遠望観測は、火山活動状況に関わらず09時と15時に行う定時観測と噴火中やその他の火山現象発生中に行う臨時観測に大別される。火山の地表に現れた諸現象を大観し、その変化をほぼ連続的に追跡し、火山活動の趨勢把握に役立てる事が目的であり、異常時には現象確認とその推移の把握に努めている。
今から110年前、当時の気象台では当然監視カメラは存在せず、火山遠望観測も正式な業務ではなかった。そのような中、鹿児島測候所職員は気象観測を行いながら、桜島の噴火直後からの状況を目視により観測し、「大正3年鹿児島県気象年報付録」へ記述している。大正3年櫻島山大噴火實寫圖は、大正噴火の際に、当時の測候所(西坂元)から職員が噴火の経過を見取り図として取りまとめた資料である。大正3年1月12日午前10時の噴火のはじまりは、引の平付近から白色の噴煙が2か所から上がり、12日午前10時5分には2か所の白色噴煙の中央から黒色の噴煙が上がっているのがわかる。更に13日午後8時10分には、噴火の規模が最大となり火柱が上がっていることも確認できる。大正3年櫻島山大噴火實寫圖は、鹿児島測候所による最初の桜島の噴火記録である。
大正噴火から110年、桜島島内外には、多くの火山監視カメラが整備され、様々な方角から活動を24時間体制で常時観測・監視できる体制が整えられた。次の大規模噴火に向けて、適切な内容とタイミングで火山に関する各種防災情報を発表できるよう、引き続き監視に努めたい。
噴火警戒レベルは、火山活動の状況に応じて「警戒が必要な範囲」と防災機関や住民等の「とるべき防災対応」を5段階に区分して発表する指標である。火山が噴火した時、どこまでが危険なのか、避難等の防災対応が必要な範囲を示す物差しとなる。防災関係機関が事前に防災対応を決めておくことで、噴火発生時の迅速な対応が可能となる。