平成6年(1994年)三陸はるか沖地震


はじめに

「平成6年(1994年)三陸はるか沖地震」から30年

 1994年(平成6年)12月28日、三陸沖を震源とするマグニチュード7.6の地震が発生し、青森県や岩手県は強い揺れに襲われ、津波も発生しました。
 この地震で、3名の方が亡くなり、重傷者含め負傷者が788名にのぼりました。
 また、建物や道路、港湾等も強い揺れによる被害を受け、停電や断水など生活に大きな影響をもたらしました。
 地震発生から30年という節目に、このページを活用して災害を振り返っていただき、地震・津波災害へ関心を持っていただければ幸いです。
被害写真紹介
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概要

震央 三陸沖(八戸市の東方約180㎞)
北緯  40度25.8分
東経 143度44.7分
深さ 0 km(ごく浅い)
マグニチュード 7.6

 1994年(平成6年)12月28日 21時19分、八戸市の東方約180㎞の三陸沖でマグニチュード7.6の大規模な地震が発生しました。
 この地震により、青森県八戸市で観測した震度6を最大に、岩手県・青森県で震度5を観測したほか、北海道から中部地方にかけて、広い範囲で震度1以上を観測しました*。
 地震発生から29分後には、岩手県の宮古で津波の第1波が到達し、北海道から関東地方の太平洋沿岸で津波を観測しました。観測された津波の最大の高さは青森県八戸と岩手県宮古の50cmであり、いずれも第1波の到達から約2~3時間後に観測されました。
 この地震により、3名の方が亡くなり、重傷者含め負傷者が788名にのぼりました。このほか、建物の倒壊(全壊72棟、半壊429棟、一部破損9,021棟)、道路の損壊102箇所、港湾漁港の被害87箇所、停電・断水など甚大な被害となりました。(被害状況は自治省消防庁による)
 気象庁はこの地震を「平成6年(1994年)三陸はるか沖地震」(以下、「三陸はるか沖地震」という。)と命名しました。
 本震発生から10日後の1995年1月7日にはマグニチュード7.2の最大余震(青森県と岩手県で震度5)が発生し、1995年5月31日までに約2,700回、マグニチュード5.0を超える地震が32回発生するなど活発な地震活動が続きました。(地震活動の詳細はこちら)

*当時の震度6は、現在の震度6弱~6強、当時の震度5は現在の震度5弱~5強に相当。現在の10段階の震度階級は1996年10月から運用開始。(詳しくは「気象庁震度階の変遷と震度階級関連解説表の比較」(震度に関する検討会(第2回)資料)より)




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地震・津波による被害の特徴など

 「三陸はるか沖地震」の発生に伴って津波が発生し、北海道から関東地方の太平洋沿岸に押し寄せましたが、幸いなことに津波による被害はありませんでした。
 これは、断層が地下の深い場所で大きくずれ動いた一方で、津波を生み出す要因となる浅い場所(海底付近)でのずれ動いた量が少なかったことで、大きな津波が発生しなかったと考えられています。
 一方で、地震の強い揺れによる甚大な人的・物的被害がありました。
 最大の震度6を観測した青森県八戸市で被害が集中しており、死者2名、負傷者720名(重傷も含む)、建物の倒壊(全壊61棟、半壊343棟)などの甚大な被害を受けました(八戸市HPより)。
 特に市内中心部で建物被害が著しかったこと、地震発生時刻がほとんどの家庭で夕食時刻を外れていたことから火災件数(8件)が少なかった(験震時報第64巻による)ことが特徴的でした。
 「三陸はるか沖地震」は陸のプレートとその下に沈み込む太平洋プレートとの境界で発生しました。このような領域では、1968年十勝沖地震(M7.9)や平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震など、社会に大きな影響を与えた地震が数多く発生しています。
 また、「三陸はるか沖地震」では、海面下の浅い場所で発生したにもかかわらず津波の被害は報告されていませんでしたが、このような津波被害のない事例があるからと安心するのではなく、「海域で地震が発生した場合は津波も発生している」という意識をもって生活していただきたいと思います。海岸付近や海に近い河口付近で大きな揺れを感じたら、津波警報等の発表を待つことなく、揺れが収まったら直ちに安全な高台に避難してください。

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被害の状況・写真

 地域別の被害状況(日本被害地震総覧より)
地域別の被害状況

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    気象庁職員による体験談

     当時、防災対応を担った気象庁職員に体験談を伺いました。

  • 【八戸測候所(現:八戸特別地域気象観測所)で勤務していた職員の体験談】
  •  この地震による八戸測候所における職員の被害について、測候所構内にあった昭和11年建築の職員宿舎では隣室との壁が倒れそうになるなど、大きな被害があったものの職員やその家族には被害はありませんでした。
     測候所庁舎は平成5年2月に新築したばかりであったためか、外側の壁タイル数か所に軽微なひびが入った程度でした。建物内では殆どの機器や什器はしっかり耐震固定されていたため、物の落下があったものの大きな被害はありませんでした。

     【職員の体験談】
    (当時夜勤だった職員)
    ・揺れている最中、計測震度計の表示を確認していましたが、揺れが強くなっていくにつれ、表示の数字がどんどん上がっていったのを今でも鮮明に覚えています。揺れが収まった後、室内は広かったため、物が散乱して足の踏み場もなくなるような状況にはなりませんでした。プリンターから吐き出される電文が地震の揺れで一時紙詰まりを起こしましたが、他の機器類には異常がなく、業務は維持できていました。日頃からの地震等の自然災害への備えは重要なんだと思ったことを覚えています。
     翌日、多くのマスコミの方々が測候所を訪れ、地震計の記録(当時、地震波形は紙に記録されていた)の撮影や、NHKの記者が観測現業室から電話でラジオ出演するなど、非常に騒然とした状況でした。また、余震が続く中、「揺れはいつまで続くのか」といった住民からの問い合わせ電話も多くありました。

    (地震発生後、非常体制のため登庁した職員)
    ・すごい地震の揺れであったことを記憶しています。また、大きな地震があれば津波が来るという住民の意識があったため、付近の住民10名が測候所に避難してきたので、会議室を開放しました*。
     *測候所は標高27mの高台の上に建っている。

    (地震発生の翌日、被害調査に同行した職員)
    ・私は沿岸部の被害調査でしたが、沿岸地域の建物被害は八戸市の中心部に比べて少なかったです。街の中心部を調査した調査員からは、中心部は特に激しい揺れであったことが分かり、また、建物の外観上は比較的問題ないように見える建物が多かったが、実は隠れたところに亀裂があったりと見た目以上に被害が大きい建物もあったと聞いた記憶があります。


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    三陸沖の地震活動について

     「三陸はるか沖地震」の震源域を含む岩手県から北側の日本海溝・千島海溝沿いでは、過去の津波の発生間隔などから見ると最大クラスの津波を伴う巨大地震が切迫しています。近年では、三陸沖から北海道の根室沖にかけての日本海溝・千島機構沿いで巨大地震が発生した場合の被害想定も行われています。
     また、この領域では、過去にマグニチュード7程度の大規模な地震が発生した後に、さらに規模の大きい巨大地震が続いて発生する事例が確認されています。
     気象庁では、巨大地震が続発する確率は低いもののその発生を否定できないことから、日本海溝・千島海溝沿いを想定震源域とした「北海道・三陸沖後発地震注意情報」の運用を2022年12月から開始しました。

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    関連リンク


    参考資料・出典

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