日和佐町
海岸は古松の防潮林に囲まれ、町の南端を日和佐川が流れて町は護岸で護られている為、被害は殆どなかった。
大浜海岸の砂浜における津波による水位は3.85mあり、汀から54mまで水が上がっていた。
当時浜で塩を焚いていた人の話では、地震から津波までの時間は20分あったという。
日和佐川口の水位は2.3mを実測した。
港湾の護岸には大きい亀裂が入って沈降のあとがよく解った。
漁夫は2寸(約6cm)位下がったという。
その漁夫は地震当時南岸の長岩へ漁に出ていて船が上下に5寸(約15cm)程揺れたが津波によって船が流されるようなことはなく、
ただ東北東に光を見たがその光はパーと明るくなってすぐ消えたという。
なお地震後、日和佐沿岸の海水温度が冷たくなったと言った。
町の中央の厄除橋は流出して付近の堤防の高さは3.6mあり、津波による水跡は3mあった。
役場の助役の話では、津波は30分位の間隔で5回寄せて3回目が最も大きく地震と津波の間は10分間あったという。
日和佐駅のコンクリートの床には南北に大きい亀裂が入っていた。
日和佐町恵美須浜
津波の高さは3.6mあったが護岸が高くて村へは浸水しなかった。
漁夫の話では、津波と地震の間は15分間あり、津波はあげ潮でそれがひいた時は汀から40mの海底が見えたという。
そして去年から今年へかけてするめいかが豊漁でこれが沢山とれる年は不吉な事があると言い伝えられていると言った。
沖の稲船付近へ漁に出ていた漁夫の話では、稲船から南では海岸に平行に舟が前後に流されたが、稲船を過ぎるともう津波を感じなかった。
海岸の絶壁はすごい音で崩れ、線香花火のような火花が一面に見えた。
沖の震源地の方向に赤い火柱を3回見たと言った。
村の墓石-直径0.2m、長さ0.6mのものが東西に倒れていた。
赤河内村田井
亀井港内の正面の水位は1.3mで、入り口の両側の石垣がすっかり破壊されていた。
付近で塩を焚いていた人は地震にとび起きてすぐ水面を見ていたが、別に変化もないのでまた床に入ったが、
しばらくして沖でゴーと音がしたのでいそいで支度して逃げた。
津波までの時間は20分以上あったという。
港内の右岸の岸壁では、水面から1.2mの高さにある道路を越して屋内に1.7mの高さに浸水していた。
田井の浜における高さは4.35mあった。
三岐田町木岐
水面から2.8mの高さの橋を越して付近の家屋に1.3mの高さに浸水していた。
川の上流の駅の付近では川の水面から2.8mあった。
田井浜では汀から27m水が上がって高さは2mあった。
三岐田町由岐
住民の話で、地震の前後は池水が減少して濁ったという。
由岐と東由岐を結ぶ大池橋は高さが4.9mあるが津波で流失した。
それに連なる堤防は破壊されて付近の家屋は流出していた。
その付近の津波の高さは水面から3.7mあった。
箆野島の沖へ出漁していた漁夫の話では、津波も感ぜず船も流されなかったが、北の山岳は盛んに火花が散っていたという。
この箆野島から内にいた漁夫は、地震の時に船が岩に乗り上げたように船底にガリガリ音がして上下に盛んに揺れたと言った。
更に他の漁夫は、津波は2回目が最大であげ潮できた津波がひいた時は箆野島まで海底が見えたという。
役場の話では、町民は津波が必ず引き潮で始まると誤信していた為に、地震の後で海を見て変化がないので安心していた所へ津波がきたので、
逃げようと外へ出た人は死んで、2階に上がった人が助かったと言っていた。
町の中の家屋の同一の壁には地面から1.51m、1.46m、1.43m、1.40m、1.34m、1.31m、1.20m、1.18m、1.12mの高さの水跡が平行についていた。
橘町
汀の岸壁の上に建つ青年学校は岸壁の高さが1.7mあり、教室内に1.72mの高さに浸水していた。
学校の女の小使(用務員)は地震と同時に起きて2階に上がり、窓からずっと津波の様子をみていた。
その話では、沖の方でゴーゴーと大風のような音がして、地震から20分位して津波がきたが、あげ潮で始めから急に高くは押し寄せず、
水は泡立ってジャブジャブ音を立てながら後から後から波が追いかけてきて高くなって、満ち潮のように満ちてきたという。
2回目からは汚い泥の波になった。
1回目から2回目の津波の間は早くて20分、2回目と3回目の間は遅くて60分位の時間があったと言った。
役場の助役の話では、津波は湾の右岸に沿って流入し、左岸に沿って流出したがその潮の流れが中央の弁天島を境にしてよく判別できた。
流入する時はゴーゴーと不気味な音を立て流出する時はザーザーという音であった。
津波は段をなして盛り上がって押し寄せ、段の高さは1.5mあってその面は白く泡立っていた。
30分おき位に5回きて、1回寄せて引いてしまうまでに20分位かかったという。
町中の平屋建ては屋内に2mの高さに浸水して破壊されていた。
2階建ての壁には平行に地面から 2.0m、1.87m、1.55m、1.45m、1.04m、0.55m、0.42m、の水跡がついていた。
町中の郵便局の付近では地面から1.24mの高さの水跡があり、海岸近くの納屋には地面から2.35mの高さに水跡があった。
宍喰町
(新聞社員の話)
「津波は夜明けまで約9回位、いずれも約10分置き位で、相当大きいと思われるのは5回位、その中でも大きな津波は3回目であった。
津波の宍喰川を逆流する様は全く物凄いものだった。
津波のひどい所は川筋に当たる所で、海面から約15尺(約4.5m)位も上がったが、自分の家には庭より4、5寸(15cmほど)に過ぎなかった。
余震は必ず地鳴りを伴っている。
川筋に当たる畑の中には相当奥まで、7、80トンの船が押し上げられている。」
浅川村
(川東村に出張中の新聞社員の話)
「私は浅川村の友人とともに隣村の川東村の旅館に投宿していた。
21日午前4時過ぎのあの物凄い激震で、友人の家が案ぜられるままに真っ暗闇の中を2人で直ちに浅川村に走った。
この時すでにメキメキという大木の倒れる音とともに物凄い潮鳴りで、浅川村は1丈数尺(およそ4~5m)の津波にのまれていた。
私はこの調子では川東村も危ないと思って、川東村役場を叩き起こし、救援隊を組織して出動するよう勧告して引き返した。
これはあとで判った話ですが、ごうごうたる津波は激震後5分とたたぬまに第1の津波が来襲し、その後数回来襲して来たと被害者は語っていた。
この村は、全村500戸足らず、海岸線に沿ってたつ漁師町で、すぐ裏は山になっているが、
私が再度引き返してその裏山にたつとこの村は一面の海と化しており、この裏山に難を逃れた村民たちが着の身着のまま素足の姿で寒気に・・・。
空がようやく明るみだした6時頃、私は村に足を入れた。
500戸の中3分の2は跡形もなく、残った3分の1も家財道具は姿を消し、海浜から8丁(約900m)も離れた陸上には鰹船が横倒しになり、
小船は至る所に転がっていて、家屋の土台すら見あたらない。」
(村長談)
「地震は6分間位水平に揺れ、震動が止むと大きな音がした。
昔から地震があると津波が来るから、米をといで焚いてから逃げろと教えられていたので、
すぐ村民に食物と釜とマッチを用意させて裏山に逃げさせたが、なかには物を取りに帰った者があって、そんな人が津波にさらわれた。
地震から津波までは約10分あったと思う。
3回来襲したが3回目が一番ひどかった。
校舎は床から5寸(約15cm)位の浸水であった。
余震は毎日何回となくあるが、皆ドンドンという音を伴っている。
ドンドンと音が鳴ると、そら地震が来ると思っていると大抵地震となる。
ただし音のみで地震がない場合もある。
主震は10分程して震動が止むと、ドンという大きな音が3回した。」
(村役場の人の話)
「私の家は直ぐ海岸にあるが、地震があったので直ぐ外に出ようとしたが足がふらついて歩けないので、
地震が止んで海岸に出て水を見たが、ただヒタヒタと平生の通りで変化がない。
寄せたり引いたりしている。
それから10分位たったと思う頃、水面が12尺(約3.6m)上がってきて今度は引かないので津波だと思ったので、
家に引き返しオーバーを引かけて逃げ出したが、その逃げるのを追う様にして波が追いかけてきた。
波は速くやっと逃げることができた位だった。」
牟岐町
(警察官の話)
「津波がきたのは10分から15分位の後だと思われる。
津波は、ちょうど満潮の時、潮が上がると同じ様に水面がずんずん上に高くなる様な押し寄せ方で、第1回の高潮は引くまで約25分位であったと思う。
陸に上ったのは第1回目だけで、その他は何回あったかわからないが、道路上に上ることはなかった。」
三岐田町由岐
(特に被害の大きかった護岸の近くに住む婦人の話)
「私は津波だというので1家4人が外へ飛び出そうとした時、6尺(約1.8m)もある護岸を乗り越して津波がごうごうと押し寄せ、
すでに首までの潮でかろうじて隣の玄関の柱にしがみつき、第1回の波が引いたのを幸い2階に難を避けました。
2階に上がった時は第2回の津波が軒までに達し、色々のものをのんで、またごうごうと引いていく。
この家もさらわれるのではないかと思い神仏を念じました。」
(いか釣りに出ていた漁師の話)
「いかの夜たきに行っていたところ、ちょうど港から5町(約550m)位の所へ帰ったとき、船底が海底にふれたような感じがした。
これが地震であったのでしょう。
港の内に入り護岸の下に船をつけようとした時、第1回の津波が押し寄せて6尺(約1.8m)もある護岸の上に船を乗り上げ、
そのはずみにグッと押し流されたので付近の家屋の屋根に飛び乗りやっと助かりました。
津波は陸ではひどいが、沖の方ではそれ程でもないということをはじめて知りました。」