馬目樫の木に登って・・・

umamegasi

自宅前にある馬目樫の木

当時住所:三岐田町西由岐(現:美波町)

 井戸の水が引くと津波が来ると聞いていたので、 家の近くにある共同井戸に石を投げ入れて津波を確認したが、ジャボンと音がした。

 地震はどのくらい揺れていたか憶えていないが、電灯が横に大きく揺れていたので怖かった。

 枕元に置いていた着替えを持って家を出て、家の前の道路で服を着替えて頭を守り、 防寒のために布団を被り般若寺に避難した。 兄は一斗瓶に入った米を担いで、逃げてきたので津波で濡れていた。

 家の前にある馬目樫(うまめがし:由岐町の木)にOさん(故人)が登って津波から助かった。 橋本屋旅館に泊まっていた客はその隣りの電柱に登り助かった。

 戦後で、食料難だったので山を開墾してさつま芋を作り保存していた。 その家の床下に穴を掘って作って「もみがら」で包んで保存していた(いも壺)さつま芋や、 船や材木や便所の汚物など味噌も糞も一緒になっていた。

 よその家の鶏は籠に入れて飼っていたので多く死んでいたが、 私の家で飼っていた鶏(地鶏、レグホン)十数羽は放し飼いにしていたので、 庭の木のてっぺんに止まって寝ていたので助かった。

 般若寺に逃げて下を見ると煙りが上がっていたのを見たが、幸い由岐町では一軒の火事もなかった。 この煙りはこたつからの火だったようだ。家の石垣の石が家の前の道まで津波で流されていた。

 暫くの間、怖くて般若寺の住職の家が同級生の家だったので、 ここで寝泊りしていた。暫く続いた余震の度にこの辺の人は、般若寺に、津波の来襲を恐れ避難してきた。

 家の津波による油の痕跡は今でも残っており(2メートル以上)、 木戸は梅雨時期になると油と塩分で濡れたためか今でも湿る。

 当時は、平屋の家が多かったので地震で壊れた家は少なかったと思うが津波で壊れた家の方が多かった。

 昭和19年の東南海地震の時も(この時は海の潮が引いていたが津波は来なかった。)、 昭和35年チリ津波の時も「津波が来るゾ。」の声を聞いたが津波の被害はなかった。 当時は、復員してきた若者が多かったので、逃げるのも復旧作業もうまくいったのではないかと思う。

 今の由岐町は一人暮らし老人が、また高齢者世帯が多いので避難する時が不安。 復旧作業も若者が少ないのではかどるのか不安。

 疎開して来ていた人が死んだというのを聞いた。

 地震・津波を体験した教訓は、火の始末をすること。 素早く逃げて命を守ること。 食料がなくてもこの辺は山に行けばなんとかなる。 お互い命を助かろう。

 60年前と港、街も変わり人も変わっている今あの地震・津波が起きるとどうなるんだろう。 もう二度と経験したくない。

 後で聞いた話だが、漁船が津波に乗って2、3度行ったり来たりしていたらしい。