津波が来るぞー!

当時住所:三岐田町西の地(現:美波町)

 「あれは長い戦争のせいだった…」

 当年とって81歳(大正13年生れ)、かつては通信士として船に乗り、 現在、由岐町役場臨時職員、兼NPO法人徳島県断酒会監事という、異色の経歴を持つ氏はハッキリとした口調で語り始めた。

 日中戦争当時は旧制中学1年生。太平洋戦争開戦が旧制中学5年の時。 学校へ行っても戦争一色で授業は軍事訓練ばかり、地震や津波のことなど教えてもらえなかったという。

 戦争の傷跡も回復していなかった昭和21年12月21日午前4時19分、徳島県は大地震におそわれた。 和歌山県紀伊半島沖を震源地とした昭和南海地震である。 マグニチュードは8.0。県東部の海岸一帯は震度5の強震が約5分も続き、その後、来襲してきた津波が被害を大きくした。 県内の死者数は202人、全半壊家屋は1516戸あった。地震発生当時22歳。 真冬だが、この頃の若者の一般的な寝姿である「越中ふんどし一枚に浴衣」という格好で自宅(現役場裏:現住所と同じ)二階に寝ていた。

 大きな揺れで目覚め、暗い中、はうように階段を降りて、庭に出た。 その間、今にも家が倒れるのではないかと思うほどに揺れていた。 記録では最初の揺れが4~5分続いたというから、この間の恐怖ははかり知れないものだったろう。 非常事態に際して、時間感覚は異常だったという。 外に出てみると、周りの家が潰れているのが見えた。

 「井戸水が引いたぞー!津波が来るぞー!」

 近所のおばさんが叫ぶ。この言葉は震災の記憶の中で最も記憶に残っていることだという。 それでも"面白そうだから"見てみようと小学校前の川に津波が来るのを見に行った。 もちろん「長い戦争のせいだった」と付け加えるのを忘れない。

 やがて川を伝わって津波が来た。 ゆっくりと、しかし、しばらくして足がつかるほどまでに溢れだした。 寝間着のまま出てきてしまったので、着替えようと家に戻った。畳が水に浸かっていた。

 老齢のため避難できず、家に寝ていた曾祖母(86)と付き添っていた祖母(66)は水に浸かる畳の上で動けずにいた。 曾祖母を、背負って近くの山の中腹斜面に建つ知り合いの家に避難した。 道中、腰の高さまで水嵩の迫る幅の狭い路地を、漂う家財道具や木片などを押し分けながら進むのに、難渋した。 避難場所に到着し、暖を取ろうとマッチを擦ったが"緊張"と"寒さ"のため手が震え、なかなか火がつけられなかったという。