宿直の早朝

当時住所:三岐田町木岐(現:美波町)

 復員して昭和21年から郵便局に勤めだし新米局員だった。 昭和南海地震は、昭和21年12月21日午前4時19分頃起こる。 当日は、電報配達のために宿直をしていた。

 激震で電灯は消え、時計は止まる。 激震があってから約10分位して港の方から「津波が来るゾ」の声、あちこちから「逃げろ」の叫び声とともに、水の音が大きくなってくる。 これはいかんと事務室の書類を二階へ上げる。 第1波より第2波の方が潮位が高く郵便局の地盤まで押し寄せてきた。 第3波は低くなってきておさまってゆく。

 夜も明け家の様子を見に帰るが、家族は誰もいなく、上ノ山に避難しているとのことで安心した。 町へ出ると津波は1m以上寄せてきたようで、雨戸は流され孟宗竹が竹槍のように家屋に刺さっていたり、 町に転がったりしていて容易に歩くことができなかった。

〇被害概略

  • 地震の揺れによる被害より、津波による被害が多かった
  • 東町のお旅所堤防は決壊
  • 西町堤防は数箇所に渡り決壊
  • 死者2名(女性) 家屋全壊1戸 半壊2戸
  • 木岐橋は流失し、木岐駅前まで流されていた
  • 駅前土手決壊 田圃に漁船が流されていた
  • 九十九土手に数隻の漁船が座礁

 住宅は、7割くらいが床上浸水、1割くらいが床下浸水。2割ぐらいが比較的被害が少なかった。 (奥、白浜の住宅には被害がなかったが、一部田圃が浸水した。)

 井戸水が塩辛くて使えず、汚水が流されて臭く、壁は塩水に浸かって乾かず、衣類、畳、布団が津波で浸かり着用できない。 戦後の物資のない頃でもあり罹災者の満足いく物資はなかった。

 この年は、スルメイカが豊漁であった。 多くの大人は、このスルメイカを持って汽車に乗り農家へ売りに行ったり、食糧と物々交換(着物、魚を持って)に出かけ、 各家庭での食糧不足を補い生活をしていた。

 私の家族は、余震が再々あるので上ノ山にテントを張り、避難生活を1週間くらいした。 防寒や津波に浸かり濡れた布団、畳、衣類に苦労した。

 郵便局の仕事で宍喰まで行ったが、浅川の一部の集落は河原状態で、被害は想像以上であった。 電気、国鉄の復旧には暫くかかったように思う。

 当時、木岐(250戸)に電話は漁協に1台、個人宅に1台の計2台があった。 輸送手段は、国鉄以外に船か馬車を使っていた。木岐橋は緊急を要するのでいち早く復旧してくれた。 昭和29年には、永久橋に架け替えられた。

 災害のこともあり、旧木岐川を駅前の方へ付け替えるが、駅前橋は町と交渉したが架けてもらえず地元で架けた。 旧木岐川を半分埋め立て、舗装は負担金を受けて町道にした。 震災で井戸水が塩辛くて飲めなく、もらい水をして昭和34年の上水道が家庭に引かれるまで、飲料水、風呂水には苦労した。

〇教訓として

  • 地震のあとは津波が来る。
  • 安全な避難場所の確保が必要。
  • 木岐は、住宅が密集しているので、路上に物を置かないように注意している。
  • 倒壊の可能性のあるブロック塀の調査、家屋の耐震構造調査やその耐震対策を進める。
  • 住民意識の調査のためアンケートを取っている。
  • 戦後まもなく建造した防波堤が残っているので、港湾計画等も検討しなければならない。