位牌を持って

zosen

お父さんが経営していた造船所付近

当時住所:日和佐町戎町(現:美波町)

 中学生になって今の桜町に来た。

 昭和20年に伝染病が流行し、弟、母親、母親を看病していたおばさんと続けて伝染病で3人の肉親を亡くした。 昭和南海地震の時は、造船所を経営する父親、おばあさん、私と住み込みの父親のお弟子さんと住んでいた。

 姉は、海南の海部女学校の寄宿舎に住んでいた。 (姉は地震の後暫くは、家に帰ってこれなかった。) 地震の時、父親は、家の財産管理の話しで親族会議に出かけており、留守だった。

 12月21日の朝方寒い時に地震の揺れを感じた。 揺れは長く停電したのでローソクに火を付け、「おばあちゃん、おばあちゃん」と声をあげた。

 今の場所ではなく海の方の父が経営していた造船所の洋館風の家におばあさんと二人で寝ていた。

 お弟子さんもひとりいた。 よっぽど2階のベランダから飛び降りて逃げようと思ったけれどおばあさんもいるのでやめて、 私とおばあさんとお弟子さんの三人で小学校の裏山に逃げた。

 「津波が来るゾー」と漁師さんが言ってまわっていた。 井戸水が引いた。 日和佐川が引いた。 私は位牌を持って逃げた。 (後で、父親に誉められた。)

 お弟子さんは、カンバ(さつま芋を干したもの、保存食)と布団とおばあさんを背負い逃げた。 私たちの後から逃げてきた人は胸まで濡れていた人もいた。 鰹節をもって逃げてきた人もいた。

 家に帰って見ると、造船所の事務所に船が突き刺さっていた。 逃げてきた人の中には一旦、家に物をとりに帰った人もいた。 廻りは、トイレの汚物やタンスなどがひっくり返っていた。

 貧しく何もなかったが、私は恵まれていたので困ったことはなかった。

 近所の人はみな漁師だった。 漁師の人たちは津波を来ることをよく知っていた。