厄除橋は流され

hune

青い車の所付近に船が乗りあがっていた

現住所:美波町日和佐浦

 現在、高齢者クラブで戦争体験の語り部を小学生対象に行っている。

 昭和南海地震当時は23歳で、5月に戦争から復員して製塩業を営んでいた。

 地震の揺れは長い横揺れが長く続いた。 津波は、「ザー」と音を立て地震後30分くらいで来襲し、「津波だ、津波だ」の漁師の声で知った。

 現在の道の駅の向かいの自宅で10人家族で暮らしていた。 地震の時は寝ていたが、地震の揺れで飛び起き、父親の指示で自宅近くの竹薮に牛をつなぎに行き、 その時兄、妹は釜(海抜6m)で塩を炊いていた。 私の家の釜より低い海抜4mにあった他の家の釜は津波で流された。

 埠頭にあった船が岸壁を乗り越え道路まで乗り上がったことを考えると、津波の高さは3.5mはあったと思う。 また合同庁舎のあたりも津波に浸かり、魚やアオリイカが打ち上げられていた。 電線は切れ、田圃に地割れがあった。 浅川の方が被害がすごく、浅川に住んでいた友人を亡くした。 桜町に住んでいた親戚が自宅に避難してきた。

 現在の厄除橋より100m下のところ(現在の郵便局前)に当時の厄除橋がかかっており、 津波により川上に押された船によって橋とともに現在の日和佐町隣保館まで流された。 この橋を復旧させるため高瀬で約1年半かけて青年団が活躍した。

 1名死亡とあるのは、役場2階にあった人形を修復した今で言うお遍路さんではないかと思うが確かでない。