その時、私は

setogawa

瀬戸川

当時住所:牟岐町牟岐浦浜崎

〇一番印象に残っていること

八坂橋を渡った時、後ろから来た人の「助けてくれ!」という声。


〇当時の様子

 家は代々海産物の加工業者であった。 昭和17年から母屋より加工場に移り住んでいた。 当時は約12名が加工場に住んでいた。 この加工場は海のすぐそばで、現在でも当時のままの状態でアマ納屋(鰹節をいぶすところ)だけが残っている。


 加工場は1階にひと部屋、2階にひと部屋があり1階には祖母と私、叔母、従弟達7人で生活していた。 自分は当時14歳で日和佐の学校へ通っていたため、毎朝5時台の汽車に乗って通学していた。 もちろん地震のあった12月21日も朝4時頃起きて、起きようかどうしようか迷ったが、 まだ少し時間が早かったので一階のトイレへ行き、もう一度寝ようとしていた。

 地震はちょうどそのとき起きた。 ゴーと地鳴りと共に3~5分揺れた気がしたが、後に知ったところによると、実際は1分程度だった。 地震の揺れがすごく、祖母が思わず泣き声になっていた。 揺れている間は、天井の電灯が大きく揺れ、天井に当たるかと思って怖くなった。 すぐ、電気が消えて真っ暗になってしまった。 揺れが収まるとすぐに母達1階の5人は浜へ飛び出した。 すると山の上から「津波が来ているので、逃げろ!」と言われた。 「昌寿寺山」へ逃げようとしたが、途中の橋が落ちるかも知れないと思い別の場所(杉王神社)へ逃げた。


 津波の音は「大八車を8台くらい引いているのではないか?」と思うような大きな音だった。 避難途中の川(瀬戸川:写真)で、普通なら真っ暗で川の流れなど見えないはずなのに、なぜか川が白く見えた。 理由は分からないが、逆流して水しぶきが表面に出ていたのかも知れない。

 八坂橋を渡り終えて津波の来襲から逃れることが出来た時、ほっとした。 その時初めて「ものすごく寒い!」と感じた(寝間着のまま逃げてきていた)。 そのまま少し進んで途中のWさん宅へ上げてもらい火を焚いていただいて、20人以上の人とともに暖をとった。 その家にいる時に何回か余震があった。

 夜が明けて大分太陽が昇ってから帰途についたが、橋の欄干が完全に流されており、沿岸域の家は流されていた。 また1階部分が流され、2階部分が1階になっている家もあった。 当時は終戦直後でどうしようもなく、誰も助けにきてくれそうになかった。 町の青年団、婦人会、消防団が遺体を処理した。(最終的な遺体置き場は法覚寺であった)。

 私は祖母を見失って逃げたが、もし祖母を探しに行っていたらならば死んでいたと思った。 叔父は、家族を避難させた後で自宅へ位牌を取りに戻った。 このとき叔父は避難する時間がなく木に登って助かった。


〇後世へ残したいメッセージは?

  • 揺れたら履物を履いて逃げよ。
  • 津波の時は人の命よりも自分の命だけを守れ。
  • 命だけ持って逃げよ。
  • 引き返すな。亡くなった方のほとんどが、一旦逃げてから引き返して津波にのまれた。

〇その他

 安政地震の時は、この地区一帯、家が一軒も無くなるくらいの大津波であった。

 津波の来た順番は、海からより川から(西から)の津波のほうが早かった。

 「助けてくれ」の声で見に行ったら女性が被災していた。その女性は助かった。