〇被災したときに一番に考えなければならないこと
すぐに逃げること。
体験談を再現した地図
すぐに逃げること。
小学校で「稲村の火」を学んだ。
自分は大きな地震には遭遇しない、と思っていた。
父親は戦争に出ており、5月に復員してきた。その年の12月21日に地震に遭遇した。
被災時は、父、叔父、弟は漁に出ていた。
自分と祖母は離れの2階で寝ていた。
ガタガタ、ビリビリと大きな音と共に地震の揺れがはじまった。
灯りが消えて、祖母が「マッチ、ろうそく!!」と探していた。
揺れがすごくなかなか火を付けられなかったが、やっとの思いで火をつけた。
祖父のマントを自分用のオーバーに作り替えたものを被って逃げた。
西の方角へ走った。
潮が来ているのを見て慌てて逃げた。
気が付いたら膝まで浸かっており、こんなに早く津波が来るとは思わなかった。
どうしようかと思っていると、目の前に小舟があったので飛び乗った。
前と後ろから来た波のため、舟は上下していた。
「網納屋」が頭の上から落ちてきて、生きた心地がせず舟の底に屈んで「助けて」と祈った。
(船の中で祈っているとき)あちこちから「助けてくれ!」という声が聞こえてきた。
津波が何回来たのか、どれくらいの時間がたっていたのか、まったくわからない(後に、津波が3回来たことを知った)。 舟から出ようとしたときは、夜が白々と明けてきていた。
「享楽座」という劇場の屋根が潰れて、その屋根の上に自分の乗った舟が乗っていた。
舟の中では互いに全く気が付かなかったが、友人と一緒に舟に乗っていた。
Aさんという人の家の前でたき火をしていて、自分はそこで暖を取った。
落ち着いてから「昌寿寺山」(現在は避難所になっている)へ逃げていったら、そこにはたくさんの人がいた。
自分の家族とはその「昌寿寺山」で再開したが、一緒に寝ていて、逃げるときも一緒に2階から降りてきた祖母はいなかった。
父、弟、叔母、親族の方々は、祖母を探しに行ったが見つからなかった。
母は8人くらいの人と一緒に大きい船に乗って助かった。
隣家のTさんは引き潮で流されていったが、その日の夕方助けられた。 (いったんは津波に流されて「内海」へ出てから引き潮で沖まで流された。)
祖母は2日後に地元の漁師の方に発見された。
祖母を含め、近所(同じ地区)で3人の方が亡くなった。
外に出たときは、不気味に静かだった。たぶん皆逃げた後だったと思う。
膝まで浸水した状態で、全く歩けなかった。
津波が来たときはとにかく音がすごかった。真っ暗で余計に怖かった。
子、孫には伝えた。
思い出すと怖いので、できれば話したくない。
地震がきたらまず逃げる。
体験談「海が吠えた日」を読んで欲しい。
牟岐町は必ず津波に襲われるから、行政にはもっと対策を取って貰いたい。
今の堤防(防波堤)は石積で中身がバラスであるから、丈夫な堤防を作って欲しいと頼んで、やっと願いを聞き入れて貰えた。
自分の命・財産は自分たちで守っていく。
今は社会、生活環境も変わったので、そういう対策も必要である。(特に防火対策)
狭い路地は通らないこと。
自主防災を進めること。(地域間のコミュニケーションが必要不可欠)
自分の身は自分で守る。
祖母が亡くなったことは自分にとって苦しみだった。 (一緒に寝ていて、一緒に外に出たのに離れてしまって祖母が亡くなってしまったから)。 また、皆が助かったわけではなかったので体験談を話したくなかった。
被災して家に帰ったときは防火用水に着物が一枚引っ掛っていた。