この体験を風化させないために

hinanbasho

避難場所の丘

当時住所:浅川村カミノ(現:海陽町)

 両親(母は妊娠8ヶ月)と5人の子供が、6畳と8畳の二間(農家の自宅)で寝ていた。

 地震の揺れはユサ、ユサと長い横揺れが続いた(後の検証だと1分少々だった。)。 電灯はヒューヒューと揺れ、停電した。

 父は、戸が開かないので足で戸を蹴破って皆を外に出し、家の横の竹薮に家族を座らせ、海を見に行った。 母は揺れが続いている中、家から提灯、イデボシや位牌を持ち出して来た。 波は引かなかったが、「津波だ」の声に海岸から走り帰った。 父が「早く、早く!」と怒鳴るが、5人の子供は小さく、他の人たちより逃げるのが遅くなった。

 逃げる途中、小学校横にある腐りかけの木製の電柱が倒れてきた。 浅川小学校の運動場を逃げている途中、浅川の川からあふれてきた津波で足を濡らしながらジャブジャブと逃げた。

 避難場所の丘に辿り着いて下を見ると、周囲の山々は避難者の提灯行列だった。 麓からは、ガラガラ、バタンドシンと異様な音響や悲鳴が響き、天上は稲光のような発光現象。 ザワザワと余震の音。

 夜も明けて明るくなると村は一変していた。 父と兄、私の3人で自宅を見に帰った。 通常は5~6分の道のりを、30~40分かけて辿り着いた。 帰る途中に、並べられた死体、戸板で死体を運ぶ人、戸板に載せた死体を拭く人、 死んでから2時間以上も経っているのに肉親の死体を無茶苦茶な人口呼吸をする人などの光景を見た。 ガレキの山、潮溜まり、沼土に足をとられながら自宅に辿り着いた。

 辿り着いた自宅の敷地内には他の家の納屋や船があった。 庭の木には海藻などが引っかかっていた。 そして、家の中はゼリー状のクラゲや色々な漂流物が入っていた。 畳は流れ、ガラス、襖は打ち抜かれ異臭もしていた。 従姉妹(幼稚園の女児)がいないと叔母が半狂乱になって探しているというので、父も探しに飛び出していった。 私たち兄弟は泣きながら母が避難している丘に帰った。 従姉妹はこの昭和21年の年内には発見されず、 翌年1月10日になって田圃の中から本人とわからないぐらいに野犬にいためつけられた姿で見つかった。

 教訓を生かし、この体験を風化させないために、毎年夏休みに教育委員会の主催で海を見ながら子供たちにこの体験を話している。 地震、津波は今来るかもしれないし明日かも知れない。 そのためにハード面の備えと共に日頃からソフト面の備えが必要である。