今でも残る津波跡

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柱に残った津波の跡

当時住所:浅川村大田(現:海陽町)

 当時、10人家族で兄弟8人で私は末っ子。姉はその日の朝4時まで女学校の試験勉強をしていた。 津波で炭のこたつやふとんがのったままの畳が浮いたり沈んだりしていた。空が明るかった。 家の前に船だまりがあり、潮が上がって来るのを見て父が「何をしている!高いところに逃げろ!」と叫んだので石段を登って「天神社」に逃げた。 物を取りに帰った多くの人が死んだ。 船はきしみをあげ、海が盛り上り津波が来た。 父は腰まで水に浸かりながら母を背負い逃げた。 津波の中、元気で泳いで逃げた人は死に、中風のおばあさんは草や家の屋根に乗って流されたが助かった。

 当時、スルメイカが沢山とれていたので、物々交換に出かけていた人はスルメイカを背負って鯖瀬で津波にあい、山に逃げた人もいた。

 機帆船を持っていて月に4回東洋町、那佐、大阪、和歌山と運行していたため、家の地下に重油タンクがあった。 津波は家の軒下まで来ていたのをゴミなどの痕跡で知った。

 今でも津波によって流れ出た重油の跡が家の柱に残っている。

 州鼻には沢山の遺体が運ばれていた。進駐軍から純毛の毛布を貰いジャンバーを作った人、みかんの缶を貰った人もいた。

 地震後、自宅の修理は後回しになり、1年間はドラム缶の風呂に入った。

 伊勢田橋みたいなものが見えるけれど、食い違うてしもうとる。 橋のたもとの家が、下を取られてひさしが柱にぶらさがり残っとんで分かった。 伊勢田橋は、両端が倒壊して通れなかった。