父、母がいない

当時住所:浅川村新屋敷(現:海陽町)

 子どもの頃は、浜辺が近いので裸のまま、海でよく遊んでいました。 昭和21年12月21日4時頃の地震。あの時の地震による電灯の揺れは忘れません。

 揺れが落ち着きましたので私はまた布団の中へ入りましたが、父が浜を覗いて来て帰ってくると、 「早く逃げなくては、近所では潮がひいてしまっている」と騒いだので、私たち兄弟4人は家を飛び出しそれぞれ手をつなぎ逃げました。

 私は、6年生の時に担任の先生からよく津波の話を聞き、 津波の時はなるべく東の方へ逃げないようにと教えてもらっていたので、川から離れた方向に逃げました。 逃げる途中、歩けなくなったおばあさんがよう逃げないでいるので、「おばあちゃん、おばあちゃん」と声をかけました。

 山に通じる道があるお寺、東泉寺さんに逃げました。東泉寺は人で人で大変でした。 何度も寄せてくる潮を恐れて、みんな山まで上がりました。 両親が来ずに不安がる私たちを、友達のお父さんが焚火で温めてくれ励ましてくれました。

 その後、山の方に沢山の人が避難しているというので、両親がいるのでは、と今の主人が探しに行ってくれました。 それで山の方で両親が無事であることを知りました。

 後で知ったのですが、両親は貴重品を持って私たちより一足遅れて家を出て東の元橋の方向へ逃げ、 中の橋付近で、津波で流されてきたドラム缶に掴まって流れて行く途中、 流されてきた家の屋根に乗っていたKさんにその屋根の上に引き上げてもらい、そのまま山の方(浦上川の上流)へ流されていき助かりました。

 両親が来ない間、山で焚火をして勇気づけて下さった友達のお父さんも、津波の後片付けの折、古釘を踏んで破傷風で亡くなりました。 折角助かった命だったのにと残念です。

 次の日から、父の実家から毎日浅川へ通いましたが、山越で雨の日はもう1歩も歩けないくらい疲れました。 自宅の流れたタンスがひとつ見つかり、中の着物を母と一緒に海部川に運んで洗って干しました。

 今でも、亡くなった子どもの泥を川で洗っている人の姿は忘れません。 同級生の女の子も2人亡くなったことも残念です。 家族で揃って無事だった事が何より嬉しく思いました。

 お金と位牌を持って逃げるようにと昔から言い伝えがありますので、今でも貴重品を枕元に置いて寝ています。