(Aさん)
地震の揺れを感じ外に出たが、寒いので服を着替えて逃げようとしたが、既に津波が来ていたので、 そのまま逃げて他の家に入り柱に妹とつかまって、津波に浸かりながら津波が引くのを待った。
津波が高くなったり低くなったりするのは感じなかった。
津波が引いたあと履物が津波で流されていたので、裸足で真暗いなか沖から帰ってきたおじさんに観栄寺に連れてきてもらい、 焚火にあたった。
観栄寺に逃げるようにと教えられていなかったが、山に通じる道もあるのでここへ逃げてきた。
地震の揺れを感じ外に出たが、寒いので服を着替えて逃げようとしたが、既に津波が来ていたので、 そのまま逃げて他の家に入り柱に妹とつかまって、津波に浸かりながら津波が引くのを待った。
津波が高くなったり低くなったりするのは感じなかった。
津波が引いたあと履物が津波で流されていたので、裸足で真暗いなか沖から帰ってきたおじさんに観栄寺に連れてきてもらい、 焚火にあたった。
観栄寺に逃げるようにと教えられていなかったが、山に通じる道もあるのでここへ逃げてきた。
地震の揺れがおさまって4人家族でここに逃げてきたので怖い思いはしていない。
いとこが消防団長をしていたので、「津波が来よるゾ」の声で津波が来る前に観栄寺に逃げてきた。
出羽島で亡くなったのは、足の悪いおばあさんが仏さんを取りに帰ったため、 逃げ遅れて観栄寺の石段のところで若嫁さんに手を繋いでもらっていたが、手が離れて津波で沖に流され亡くなった。
出羽島の人が、牟岐に出かけていって津波で亡くなった。
逃げようとした時に、流されそうになったので柱にしがみついて妹とふたりで津波から逃れた。
あとは、Aさんと同じ。
新町は昔、海だったが埋め立てした。
新町は軒下まで浸かっていて、一番被害が大きかった。
夜明け頃から、ぼつぼつとみんな家に帰って来た、家の壁にトイレの汚物がついていた。
ドノセ(石垣でできた堤防)の穴にもトイレの汚物が詰まっていて臭かった。
イモ壷のイモも流れていた。
沖の方にはいろいろな物が流れていた。
地震の後、小学校近くの共同井戸の水がなくなり、水が沸いてくるのを順番に汲んだ。
余震の度に、ご飯を食べていても裸足で外に出ていた。
生活用水に困ったので、内妻の川まで船で行って洗濯をしたり身体を拭いたりして、河原で干して一日居たこともあった。
雨水も利用したが、真水が少なかった。舟は傷んでいた。
水がなかったので、津波のあとの掃除が大変だった。
今では、津波の痕跡はもうない。
地震の後は、津波に備え観栄寺に逃げろと教えてもらっていなかったが、 昔の津波でドノセに干してあった切干が濡れていなかったので、地震の後はドノセに逃げろとおばあさんから聞いていた。
そんなには早くではないが、どこから(県か役場か)の救援物資か知らないけれど、 缶詰なんかを被害の大きかった家を中心に配られた。 床下浸水の家は配給が少なかった。
津波を経験しての教訓として、「逃げる事」、「電池を準備しておく事」、「出口の確保」、「ガスの元栓を締めること」かな。
昭和南海地震の時と今は町は変わっているのでね。
子供で戦時中の経験もあるので寒さなどは馴れていた。
港は傷んでなかったと思うので、すぐに使えたと思う。
当時は21歳。漁師で山口県下関にいたので地震の揺れを感じただけだが、40代後半の親父が深さ18~20mの海に出て、 魚の餌のエビを舟からロープ(重さ60kg、長さ100m)を取りに行っていた時に津波を感じて帰ってきた。
舟は、津波で上下に動き、ロープははすかいになっていた。
港に帰ったときは、舟は新町近くの家の軒下に着いた。
津波は、島を左右から廻り込むように港に入ってきたようだ。
ここが避難場所になっているが、ブロックが倒れたら逃げてこれないと思う。
Dさんのお世話で、ここには米などの備蓄食糧を置いている。
また、タンスや冷蔵庫は耐震固定している。
地震で家が倒れると道路が塞がれ逃げられないので、住民にドノセから逃げろと指導しているが、なかなか聞いてくれない。