海南町 御崎神社石碑

安政南海地震

所在地:海南町浅川 御崎神社境内(現:海陽町浅川)

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大地震津浪記

平成8年3月再建

御崎神社

旧碑

明治34年建立

この碑文は、千光寺の額面記録をそのまま刻んだものですが、一部追記されています。

再建碑 碑文

大地震津浪記

 干時、嘉永七(一八五四)甲寅十一月四日辰刻、大地震、須叟にして潮狂ひ町中へ溢れ込、 是全く大潮の入るならむと人々驚き山上へ荷物をはこび迯登り周章あへり、 此日は一天に雲風なく日輪朧のことくなれは宝永度の如き震汐もあらんかと海原にかかりを焚てその夜を明しぬ。 翌五日は弥風収り天色前日の如く殊に暖なること時候に背きけれは、審敷おもひ山上へ仮小屋を建、荷物をはこぶものもあり、 又前日の変にて事すみしとこころゆるみ持出したる荷物を持帰るもありて区々なる折から、 申刻より古来未曽有なる大地震、漸くして家蔵崩れかかり黒煙たち山海鳴ひひき、老若男女あはてふためき迯まとひけるか、 忽津浪山の如くに押来れはなけきかなしむ声々喧しく、もよりもよりの山口ヘ迯登り見るに一番潮より三番汐まての大荒れ、 いはんかたなく、浦村人家土蔵不残流失せり。 天満宮、大蔵、御崎明神、江音寺、千光寺、東泉寺、門徒庵のみ引残り、四番汐より後は幾度ともなけれと、 夜に入、尚大地震鳴動して人々生るここちもなく、ひたすら急仏のみに夜を明しけれは、もののわかちもなく、 暁寅刻頃に至って震遠くなり浪も少しく静まりぬるに、土地は跡なく海河原とかはり、あはれなること言葉に述かたし。 津浪の高さ二丈より所により三丈余、観音堂石段廿五段、一谷カラウト坂下辺まて、伊勢田は馬頭庵迄、 浦は、すへり石坂麓まて、三ケ寺とも座上四尺余、死人弐人、浅川浦喜右衛門、重太郎なるものなり。 馬弐疋死す。 大坂其余の国も船に乗、迯出、死人夥敷よし。 百有余年の後かくのことき地震津浪あらん節はかならす、そのしるし前にあるへし、かまえて山上へ仮家を建、 鍋、釜、鎌、鍬、麦米、当用の品々速に持はこひ仮住居の用意肝要也。決而、船に乗組、助からんと思ふことなかれ、 後の世の人、心得のため此あらましを書附て残し置ものなり。 大汐年号、永正九年八月四日、慶長九辰年十二月十六日(慶長九迄九十四年目)宝永四亥年十月四日(是迄百四年目)嘉永七寅年迄百四十八年目なり。 宝永年度の大汐は、いど水引き海浜より弐百間もひき死人百五十八人死すと。 山道は年々作るへし。


(裏面)

左に大地震津浪記の古碑がある

永年の風化により石文が判読困難になった。

よってここに再建して後世に伝える事とする。

平成八年三月建之 海南町